最後の手帳
来年の手帳をいただきました。
関西の百貨店の往年の包装紙を
表紙にした縦型の手帳です。
パラパラと眺めながら
ふと考えた。
再来年の4月に定年を迎える
私は、会社勤めを一年するのは
来年が最後になります。
手帳の数は、これを含めて35冊。
人生のうちの12,775日を
ひとつの会社で働き、
その日々を手帳に書いてきたのです。
本棚の片隅にまとめてある
使い終わった手帳をひっぱりだしました。
アトランダムにめくってみます。
すでに鬼籍に入られた方との
企画打ち合わせが明け方まで
入っていました。
香港、シンガポール、香港、
バハレーン、香港・・
ずっと世界を歩いていた時期も
ありました。
妙なシールが貼ってある。
素敵な女性とデートをした日でした。
頭だけで考えていると、
断片的な映像しか浮かばないのに、
手帳をめくると当時の自分を
ありありと思い出すことができたのです。
多分、今より体力も知恵も使い、
不安も焦燥もビクビクもドキドキも
強いビートを刻んでいたのでしょう。
しかし、遠くに過ぎ去った時間は、
どれほど苦しく、つらいもので
あっても、どこか牧歌的で、
晴朗な感じがしました。
「そんな時間もあったねと
いつか笑える日がくる」
と中島みゆきは言っているけれど、
まさにこの感覚。
どの時間も愛おしく、笑みが
こぼれます。
ある人が、こんなことを
言っていました。
「過去を幸せに思える人は、
今がとても幸せなんですよ」
確かに「今」が不幸せだと
「こんなに不幸なのは、
あのときの、あのせいだ」
と自分の過去を毒づきたくなります。
過去の失敗が、今に続いていると
考えがちです。
反対に今が幸せだと、
「過去のあの失敗があってこそ、
今の私がある」
と過去までが、幸福なものに
見えてきます。
過去はあくまでパーソナル。
それぞれの中にある記憶にすぎません。
だから自分の過去が失敗か成功かは
心のもちよう。
今が幸せなら、いくらでも過去は
書き換えられるのです。
書庫から部屋に戻って、
もう一度、来年の新しい手帳を
見つめました。
サラリーマン生活最後の手帳。
ここに不幸な出来事は書きたくない。
最後の手帳が幸せいっぱいならば、
「あぁ、俺の会社人生は
悪いもんじゃなかった。
成功だった」
とこの35年間をトータルに、
前向きにとらえることができる。
そんなことを考えて、手帳に
名前を書きました。
ていねいに、ていねいに、
会社名も入れました。
男の変わりドキ!
それは来年の手帳を手にした
ときです。
真白い手帳を眺め、
「幸せに暮らすぞ」
と覚悟を決めたとき、触れたくなかった
過去に、中島みゆきの詩が流れてくるのです。
まわる まわる
時代はまわる
よろこび かなしみ繰り返し
まわる まわる
時代はまわる。
<ひきたよしあきプロフィール>
1960年生まれ
株式会社 博報堂クリエイティブ・プロデューサーとして働く傍らで、明治大学で講師を勤める。現在朝日小学生新聞にコラム「机の前に貼る一行」日経ウーマンオンラインに「あなたを変える魔法の本棚」を執筆中。著者に「あなたは言葉でできている」(実業之日本社)「ゆっくり前へ ことばの玩具箱」(京都書房)」「大勢の中のあなたへ」(朝日学生新聞社)「机の上に貼る一行」(朝日学生新聞社)「博報堂スピーチライターが教える短くても伝わる文章のコツ」(かんき出版)最新刊は「大勢の中のあなたへ2」(朝日学生新聞社)がある。