こういうのが書ける人になりたい
太宰治という作家は、好きか嫌いかが明確に
分かれる作家です。
「あんななよなよして、病気や心中を売り物にしている
作家のどこがいいんだ?」
「あれは偽物だよ。貴族と書いているが、所詮、田舎者だ」
かの三島由紀夫も、大嫌いであちこちに悪口を書いてます。
その一方で、日本の近代文学の中で未だに売れている
作家は太宰治くらいしか見当たりません。
重松清が絶賛し、最近では又吉直樹が褒めまくっている。
「どうして私のことがこんなにわかるの?」
と驚く女子高生は今なお健在。文学賞を目指して投稿する
人の中には、あきらかに太宰の文体を模倣した人が今でも
大勢いるそうです。
私は大好きな作家です。
ある意味、人生を変えた作家です。
子どもの頃、さして読書が好きでもなかった私が、
道徳の教科書で「走れメロス」を読みました。
初めて、次の一行が読みたくなる文章でした。
終わりに近づくのが、もったいなくて悲しいと感じる
話でした。
読了し、ぱたんと本を閉じた晩秋の夜に、
私は体の奥底から聞こえてきた声を耳にしたのでした。
「こういうのが書ける人になりたい」
「走れメロス」がいいとか悪いとかではありません。
内容に感動したというよりも、私が今経験したように、
次のページをめくりたくなる「ストーリーテラー」に
なりたいと思ったのです。
「走れメロス」を読んだ日から、あきらかに読書が
変わりました。
本を面白い、面白くないではなく、「書きたい」、
「書きたくない」で評価するようになったのです。
それまで歯が立たなかった夏目漱石が、こういう小説を
書きたいか、書きたくないかという視点で眺めてみたら
明らかに「書きたい」側の作家でした。
「小説の神様」と言われ、多くの人が作家をめざして
文章を写経するという志賀直哉は、「書きたくない」人
でした。
新しい作家も海外の作家も、「書きたい」「書きたくない」で
判断し、「ここは盗める」「こういう単語は使いたい」と
ノートをとったりしはじめる。
「あぁ、これはベタついてダメだ」
「これはコンプレックスの裏返しだ」と嫌いな文章を
毒づく機会も増えました。
「国語」という科目ができるようになったのも、
実をいえば大学に入って、予備校で国語講師のアルバイトを
始めてからのこと。試験問題をつくる側に回ってみると、
学生時代に苦しんだ問題が簡単に解けるようになったのです。
「書き手の側に回る」
こうすることで世の中がガラっと変わることを
太宰治が私に教えてくれたのでした。
結局、「走れメロス」にはじまった「書きたい願望」が高じて、
広告会社に就職し、今では毎年本を出すようになったのです。
本日の変わりドキ!作り手の側に回るということ。
いつまでも受け手のままでは、人生の面白みが半分しかない。
才能のあるなしなんて関係ない。視点を「作り手」に変える
だけで、世の中のありとあらゆるコンテンツが、自分を
中心に回りだすようになるのです。
<ひきたよしあきプロフィール>
1960年生まれ
株式会社 博報堂
クリエイティブ・プロデューサーとして働く傍らで、明治大学で講師を勤める。現在朝日小学生新聞にコラム「机の前に貼る一行」日経ウーマンオンラインに「あなたを変える魔法の本棚」を執筆中。著書に「あなたは言葉でできている」(実業之日本社)「ゆっくり前へ ことばの玩具箱」(京都書房)」最新刊「大勢の中のあなたへ」(朝日新聞出版)がある。